鎌倉幕府が倒れ、後醍醐天皇がしいた建武の新政も、足利尊氏らの離反により終わりを告げます。 吉野に逃れた後醍醐天皇の南朝と、足利尊氏が京都に光明天皇を擁立した北朝に分かれ、正統を争う南北朝時代が約60年間続きました。 その終わりの頃、北部九州北部九州は壮絶な戦いの舞台となりました。奥八女には征西将軍宮・懐良親王や南朝最後の親王である後征西将軍宮・良成親王の墓ほか、ゆかりの地が数多く残されています。
太宰府太宰府観世音寺の末寺として創建された由緒あるお寺でこの資料館には、第96代後醍醐天皇の皇子懐良親王ゆかりの資料を展示しています。
正平14年(1359)九州をほぼ統率した懐良親王。天授3年(1377)星野村の大円寺に入り、九州にある南朝方を率いましたが、弘和3年(1383)、55歳で薨去されました。 亡骸は、空谷山(大明神山)に葬られました。
後征西将軍宮 良成親王墓。明治11年(1878)に現在の宮内庁が墓に認定し、代々、五條家の子孫が守部に任命され守られています。
毎年、良成親王命日の10月8日に執り行われ、約600年前から続く由緒ある祭り。この地で没した親王の御霊を慰め、墓前で公卿歌や浦安の舞が奉納されます。
昭和15年に皇紀2600年を記念し作られた神楽舞。「うら」は心を指す古語で、「うらやす」で心中の平穏を表し、「波立たぬ世」を願い巫女たちによって奉納されます。
鷹取城跡(星野)
星野氏は南朝・懐良親王の力強い味方であり、親王は深い傷を負ったときも星野へ逃れて静養しました。 星野氏は耳納連山に鷹取城という山城を築き、星野谷全域に勢力を誇りました。
猫尾城跡(黒木)
黒木氏は、南北朝時代に懐良・良成親王へ忠誠を尽くしましたが、黒木氏の居城・猫尾城は北朝方にたびたび攻められ激しい戦いの場となりました。 頂上の本丸入口には今も石垣が残されています。
木屋行實の墓(黒木)
木屋行實は、黒木氏とともに郷土の若者を率いて戦い、懐良親王を支えました。黒木の木屋氏邸の小高い段上に墓があります。 「木屋文書」は戦の様子が描かれた貴重な資料です。
明治時代、旧家の古文書調査で調査官が驚いたという第一級の史料。南北朝当時の重要な巻に始まり、菊池家・阿蘇家・大友家・加藤清正などに関わる文書が含まれます。
戦の先陣で掲げられていた御旗。金の烏(カラス)は太陽を表す。4人の皇子に与えられたといわれ、五條家のみに現存します。
槍で突かれた穴、切れた糸など戦いの痕が生々しい。
後醍醐天皇が亡くなる前日に側近によって書かれた命令書で、遺言書ともなった絶筆です。 当時、密書は襟に縫い込むなどして運ばれましたが、これはまげの元結として運ばれたもの。約9センチ四方の小さなもので、御旗祭ではこちらも一般公開されます。
明治時代に描かれた「大保原の戦」の一幕。親王のご尊顔が松の枝で隠されていたり、菊池武光が川で刀を洗う姿など多くの逸話が盛り込まれています。
宮内庁陵墓守部(しゅぶ)として「大杣墓」を守る現・五條家当主は、懐良親王に仕えた初代・五條頼元から数えて25代目。 この間、南北朝時代ゆかりの遺品が大切に守られてきました。年に一度、「金烏の御旗」などの重要文化財の一部が一般公開されます。
パンフレット「南北朝動乱のドラマ」でもっと詳しく