更新日 : 2023-01-25
旧大内邸で受け継がれてきた暮らしの営み―
蔵に残された古布を使ったパッチワーク、手作りの竹の箸、身近な素材を余すところなく使った家庭料理。
ここで続けられてきた種々の活動は、現代の視点で見ると、どれもサステナブルで、
サーキュラーエコノミー(循環型経済)の先駆けとも言えるものばかり。
旧大内邸保存会代表の田中真木さんに、保存運動の始まりからお料理の背景、今の時代への思いまでをお聞きしました。
一番最初はここに空き家があって、人がなかなか住みついていなくて、もう崩壊が始まる寸前になってまして、地元にいて、こういう歴史ある家が、このまま崩壊するのはしのびないという思いで、保存運動に入りまして。
いっとう最初から言えば、保存運動が始まる10年くらい前にも一度やって、周囲の賛同があまりなくて、それから、10年15年くらい後に、本格的に雨漏りが始まりかけたもんですから、一冬過ぎたら、もうそろそろ壁も落ちるかなという感じで焦りまして、一所懸命頑張ってみようということで、署名運動と瓦一枚運動で2,000円の寄付を募りまして、全国に発信して。
大内暢三さんという人がですね、上海にあった東亜同文書院ていう、国が作った平和でアジアをまとめようという、戦争をなくそうという考えのもとに作った大学があって、そこの院長をして、戦争反対の第一人者ていうか、頑張ってた人なんですよ。とうとう戦争に入ったですけど、その間もずっと一生懸命戦争に入らんための運動をした人なんですよ。
旧大内邸は、今の時代に一番そういう考えを持つべきという人の生まれたとこなんですよ。
ここにも韓国の人やら中国の人やら、いっぱい訪ねてくるような、田舎にしてはですね、国際色のある、とても歴史のある家でしたので、その家を残すというのは、ただ単に古い家を残すということではなく、地域にとってもね、ここから出た人でも自分のふるさとにそういう所がちゃんとあるという事を知らせるのにもぜひ残すべきと考えて。
この家と父が親友だったもんですからね、行ったり来たりがずっとあって。それで終戦ですってんてんになったやないですか。
生きていきにくい頃にね、ずっと色んな事をやりながら、助け合って生きてきて、その姿が、私小さい子供ですけどね、男の世界のね、素晴らしさっていうのがもう頭にこびりついて、いいなぁという感じで。それで、あの人たちがいたら、こういう事を願ったんじゃないかちゅうのは体の中にありまして、
色んな困難がわりに耐えられたっていうか。それは自分の中では大きかったです。あまりそういうことを言ってはいかんと思いながら、黙ってましたけどね、やっぱり根底には、そういう思いがありました。
近くに住みながらね、あの家がすたれてしまったら、この地域に考える者はいないのか、と言われそうな気がして、なんとなくそこは許せんなという感じがあって、避けて通れないという思いがあった。
どういう場所にするかというのは、試行錯誤で。時々講演会をしたり、地域の人たちの文化事業に貢献ができる場所であればいいなぁというのが、先祖の願いと思うとですよね。
暢三さんも教育者であったし、父たちの思いもそれに近いもんだろうというんで、食事処にする発想はまずなかったです。
私たちが全部主婦で、社会的な運動とかに結びつかない者ばかりだったもんですからね、とにかく自分たちに出来ることをしようというんで、2ヶ月にいっぺんくらい催しものをして、ここで皆さんで楽しんでいただくという方向でいったんですけど、周りに食堂もなければ、うどんやさんもそばやさんも一切無いもんですから。
たまたま私が料理が好きだったもんで、お客さんたちが10時頃に訪ねて来られて、ちょっとお話ししてるとすぐお昼になるんですよ。そうすると、じっとしとられんわけですよ。それで、ついついあるものでね、ごはんがある時はチャーハンしたり、おそうめんでも茹でてというような、ちょっとしたものを出してお話しして帰っていただくような事がずっと続いてですね。
そのうちに、段々、お料理目当てで来る人が多くなってですね、自分の親を連れてきたりとか、仲良しを連れてきたりとかが多くなって、収集がつかなくなってきたんですよ、段々。
私はお昼になったらね、お昼を出さんと。もうそれが頭の中に入ってしまってるもんだから。無理もなんもなくやってたのが、段々そういう風になってきたものですから、これなら保存会でね、週の半分くらいをね、お料理を出して、資金作りちゅうか、色んな充実させていくためにやろうかなということで、始まりました。
今私が一番うれしいのはね、行政と、やってる人と、話し合いながら、どうしようこうしようという形になってることが本当に夢みたいなことです。嬉しいと思います。
最初の頃はですね、誰一人行政の人も来ないし。2年くらいして、担当の課長が台風の後にお庭の掃除に手伝いに来たんですよ。そしたら涙がボロボロ出ました。わぁすごいと思って。やっぱり自分たちの場所と思ってくれた人がいたんだと思って。それからずっとやってきて、今はこうやって後継者を育てようとしたり、どういう場所にしようとしたり、発想がね、出てきたっていうのがもう夢のような世界です。
何周年かした時はね、ここで泊まりたいっていう人がいっぱいじゃったけんね、泊まってしたことがあったんですよ。貸布団が千円くらいでね、手配してもろたけんね、あっちこっちに全部布団敷いて、隣の家ば一軒借りて、二軒で全部お客さんが泊まったんよ。
そしたら中に来とる人が夜やんけん、みんな飲まれたけん、三々五々全体に灯りがついてね。そしたら「真木ちゃん、ちょっと来んね」ちゅうてから呼びに来たけん、外さん出て行ったらね、この中が電気の灯りと人いきれで、もうあったかい家になっとったわけ。
「真木ちゃん、この状態がしたかったっちゃろ」っち、言われてね。そげん思うてくれるとこがね、ようわかってるなぁっち思ってね。気がついてくれる人がいるのも、その有り様を見てもうれしくて、いっとき眺めよった。しんからみんな楽しんでね。
母は京城育ちで、小柄な人やったけど、人間の大きいっちゅうか、太っ腹でやさーしい人でした。父は厳しい人でした。二人とも言葉がね、きちんとしてて、言葉で伝えるのは二人とも得意だったですね。料理を手間暇かけて教えるんじゃなくて、きちっと説明して教えるという感じで。
母が長患いしてですね、終戦間際に。いくつも病気抱えて、命がないっちゅう大病したんですよ。それがちょうど小学校の1年生に上がるか上がらんかくらいだったんで、私が台所をしよったわけですよ。
その時に言葉で父が命令するわけ。「こうやってこうせろ」って。なーんも知識として入っとらん頃でしょうが。半分くらい料理をしとるならね、ちょっと中途半端に聞いとるけど、何にもない時にそれを言われたけん、それがしっかり体に入ってるわけよ。
それで酒飲みじゃったけんね、しょっちゅう酒飲みさんがきて、一緒にワイワイね。とりあえず飲み始めに料理が出来る前に、大根の一番おいしい所をサイコロに切ってね、持って来いっち言われて。
いつもその大根が最初ですよ。付き出しの感覚で。氷は隣の魚屋さんからもらってきて、砕いてね、その上にサイコロの大根をいっぱい載せて持って行くとね、岩塩ばつけてね、「おいしい、おいしい」ちゅうて、もうシャプシャプやって食べよったっですよ。
大根はね、煮すぎば怒られよったですよね。「煮ればいいちゅうもんじゃない」っち。言葉がね、ずっと大人言葉でね、はっきりわからんけど、大体言われることは、意訳してわかるくらいの言い方ですね。味をつけすぎるとね、「大根は大根でいい」っちゅうような言い方をしよったですよ。なんとなく、あぁ濃いかったのかなという感じで受け止めて。そういう会話をずっとしててですね。
お魚も隣の魚屋さんが毎日一番おいしい魚を持ってきますよね。それを煮たり焼いたりするわけ。すると、煮る時にね、煮すぎるのば又叱られるわけ。火がふつふつと身に行き届く時に火力をやめていかんと、「煮すぎるな。目を離すな。」っちゅって。
軒先に下げてある胡椒(唐辛子)ばね、取ってきて炭火で焼いて、そして煮える寸前に鍋にいれて、蓋をして走って持って来いっち言いよったわけですよ。香りが飛ぶ前に。胡椒の香りがぷーんとたつ時に食べにゃいかんちゅうて。その頃は鍋もね、戦時中で全部供出して、鋳物みたいな鍋で、片っぽの手は割れとったですよ。しんから覚えとるけど。それば走って持って行きよったわけ。そすっと、「よしよし、今のうちに食べよ。」っちゅって。
料理には特徴があった方がいいじゃないですか。
どこ行っても田舎風の料理もあるし、野菜料理もあるし、都会にいてもほとんど不自由はないですよね。それ以上に田舎の良さがなからんと。
「わぁ」という感じがほしいと私は思ってたわけ。田舎の食材だけど、楽しいお膳というか。それは意識してたと思う。その歓声を聞くために、頑張ってたような気もする。味プラス華やいだお膳。田舎で田舎臭い料理を出すという感覚とはちょっと違ってた。
全てに対する、食べ物に対する愛情とか、食べてくださる方への愛情とかでね、1+1が3になると思うんよ、私の世界は。プラス1が重要。
今の人たちはさばけてね、どんどんテキパキと言われたことをやっていくやんね。1+1が2になると思う。2までだと思う。
私はその3になるところがね、愛情と思う。私のために作ってくれた…という感じがね、お膳の中にあるとと思う。器も、箸も、箸置きも。
やっぱり人間好きですよ、私は。来てくださる人にね、楽しい思い、おいしい思いをしてもらいたいという、その気持ちにいつも満ちてるわけ。それでね、ついついそうせざるを得んちゅうか。それが楽しくてしょうがないわけよ。
私たちは、消費がちっとも楽しくないと。自分の工夫で生きていくのがものすご楽しいわけ。材料が無い時は山から採ってくるような感じで。それがけっこう楽しかけんね。
私は消費生活はほとんどしとらんけど、ものすご楽しかったもん。私は稼ぎが全然できんやったけん、自給自足をずっとやってきたけど、それはそれでものすごい豊かな気持ちでね、楽しかったんよ。その次また生まれ変わったとしてもね、今の暮らしみたいな暮らしが続くと思う。消費生活にどっぷりつかるようなことは無いと思う。消費よりも、創造する方が楽しいとよ。創り出す方。
そりゃたまには消費もいいかもしらんけど、消費生活に没頭していくと、際限がないっちゅうか、買っても買っても次にいくような、満足度がなくて。
食べ物も一緒と思う。現地にあるお野菜を色々工夫してね、おいしくて、きれいな姿でお料理に活かせたら、もうその方が楽しいやん。ずっと遠くからおいしいものを取り寄せて作るよりね、うんと楽しいと思う。
ここが残った時はもう、ぱさぱさしてですね、本当にもう古い家だったんですよ。そしたら、私たちが色々やり始めて人が来るようになって、段々つやが出て、生き返ってきたんですよ。
死んだような家って言うじゃないですか、あれは本当に、人が住まないと死んでしまいます。
なるだけここは人がね、来てくださるとこにして、それでまずもって、都会に住んでる人がね、訪ねて来て、日本のふるさとに帰ったような気がするという、「ふるさとであればいい」という、そこまでしか考えてなかったです。
その意味ではお客様とは通じ合う関係ができたと思います。人と人と繋がってここはできたような気がして。これから先は、新しい方たちの発想で、もう少し充実させていっていただくと。
私、主婦業だけしかできないんですよ。
みんなが楽しくここで働いて、それぞれの自分の才能をね、ここで開花させていただくぐらいが精一杯で。そのメンバーはみんなそれぞれ一芸持っててですね、ここでやることに何一つ不自由がなかったんですよ。お客さんに対する思いっていうのが、みんなあったかくてね、みんなここ来たらファンになってくださるんですよ。それで、時々しか来なくても、なんかある時にちょっとお手紙出せばね、即来てくださる関係がずっと続いてて。
それで、全国にまたがってるんで、それが大きな支えというか、みんな遠くにいるもんなぁ、と。ここにふるさとと思ってる人がいるもんなぁという思いでずっと豊かに暮らせた。
ずっと楽しかったです。働いてる人たちももう似たり寄ったりの年配なんで、みんな弱ってますけどね、大内邸で働いた期間が人生の中で一番楽しかったって言うくらい、なってます。
ひとつは時代の流れが速すぎるとたいね。どんどん変わっていくやんね。 私たちまでくらいはゆるやかに少しずつ変化したりしてきてると思うんよ。流れに余裕があったけんね。継承していくものもずっとできたと思うと。 この頃の流れの速さちゅったらないじゃないですか。それで、追っつかんというかね。 またそれがゆるやかになる時代がくるかもわからんけど。
そういう時代であっても、それを受け止めてる若者がいないではないとよ。 ここは特に色んな人たちが来るけんね、あぁうれしいなぁという感じの若者がね、いないわけではないと。
また時代がどういう変化がくるかわからんから。食糧難の時代がくるかもしれんしね。そうなったらもう絶対私は自信あるとよ。笑
どうやっても生きていける。それも豊かに。
物のないのが豊かでないことはないわけよ。その中で楽しめる事がけっこうあるけんね。
八女市出身。幼いころから縁のあった旧大内邸の保存活動を立ち上げ、修復後は、旧大内邸保存会として長年にわたり保存・活用に取り組む。手間ひまをかけた手料理「母の膳」や生活文化継承の取り組みは評判を呼び、全国各地のお客様との心の通ったおつきあいは今日も続く。